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東電が批判にさらされている。
たしかに要領の悪さが目立つのだけど、批判を覚悟でいえばそんなに責めるのもかわいそうだと思う。 マグネチュード9.0の地震はたぶん1000年に1回というのは当たってる チリ地震津波のマグネチュード9.5が有史以来の規模と言われているが今回の津波の規模はそれよりはるかに大きい。それはもう天災で被害があまりにも大きくて言いにくいがこれは不可抗力だ。 津波の予想が甘いと言っている人がいるがマグネチュード9.0を想定した建造物は世界のどこにもないと思う。福島原発の設計時に予想された津波は2002年の補強後で5.7m(同地点のチリ地震津波の1.5倍)かりにこの想定を3倍にしていても今回の津波は避けられなかった。 われわれが住んでいる日本列島はこういう1000年に一回の天変地異を何百回も繰り返して現在の形になった。地球上がだいたい現在の地形になってからを地学では第四紀という。250万年ぐらい前のこと。 第四紀に成立した日本列島はそれから1000年に一度を2500回繰り返して現在の形になったと思ってもいい。 私たちは地形を学ぶとき三角州や扇状地という名前を聞く、これらほんの小さな局地的地形でも10年に一回100年に一回の台風や山津波いわゆる天変地異でできたもの。山脈も盆地も天変地異の結果であることは同じ。 さらに日本人は稲作文化の民だから、居住地にまず真水を求める。日本のすべての都市は広さにかかわらず水利のいい平地に成立している。 第四紀の地形変動で弓なりに折れ曲がりながらできた今の列島は日本背梁山脈といわれる背骨に薄く張り付いた部分しか平野を持たない、したがって大都市はみんな沿岸に成立する。 もともと、水利のいい(川のある)海べりの平野(氾濫原)にひとが集まって住むということそのものが防災上の弱点を作っていることになる。 だからといって日本人は山の中に散在して住むこのはもはやできない 主食は低湿地のコメだし都市文化は爛熟してる。 ただ地面をほじくり返している地理学や考古学は「あきらめよ」と言っているばかりでもない。 考古学者がなぜ地面を掘るのか考えてみよう。人々の生活の場が何もないのに自然に地中に沈んでいったわけではない。すべての弥生遺跡が地中にあるということは、結局のところ2000年たてばひとの暮らす地表にはなにかしらの天変地異が起こりその上になかったはずの土壌を運んだわけである。 そしてその上に新しい生活が築かれ新しい地表ができる。 だからこその発掘。 見捨てられた平城京は発掘前広大な水田とイチゴとスイカの畑だったけど平城京の人々が丁寧に柱を抜いて整地して京都へ移ったとは考えにくいもの。 今はまだそんな話をする時期ではないがもう少し落ち着いたら、自然地理学や地形学は発言すべきだと思う、 たしかに今回の大震災の被害とその復旧に原発は大きな問題を起こしている、被災地から遠く離れた関東の人々にとって東京電力の事故は今回の大震災を「対岸の火事」ではすませてくれなかった。その感情的な怒り「東電のせいで遠くの地震で東京までえらい目にあう」そんな気持ちが東電に集中する批判の一部になっているように思う。 マイクロシーベルトの単位におびえる都民の怒りのはけ口にもなっている。 しかし東京にとって日本のどの地域も経済的に対岸ではない。大都市は日本だけでもないがあらゆるところに依存して存在する、一方で「今までの電力は福島の人々の犠牲によって賄われていた」というのも間違い。東電の原発は間違いなく福島県に1万人規模の雇用を創出していた。この不可分の関係を地理学なら少し説得力のある形で説明できるし前向きの提案もできる。 地形学もおなじ、日本列島に住む基本的なリスクとなぜ住み続けていたかについて発言できる、それは今後についての基本的な提案の役に立つ。 津波は天災、原発は人災とわりきって一企業の問題。政府の対応の問題をいくら追求しても何の役にも立たない。 NHKのハーバード白熱教室の再放送が今日あるそうな
1回目の放映を見たものとして、まったくもう学生のヘタレぶりに涙が出た。 この授業の手法がデベートであるという前提について行っていないという基本的な能力不足はさておき、戦争責任→謝罪するかしないか という論旨の展開に異議を申し立てるスタンスが出てこない。 謝罪するべき、謝罪の必要がない どちらの論者も言葉に対する感度が低すぎる。 教授はおそらく意識的に戦争責任を認める=謝罪する という設定を置いているのだがここに問題があることに気がつくべき。「攻めるならここだ!」というポイント。 「歴史的過去、われわれの上の世代」の戦争責任を認めることと、現代のわれわれが謝罪することは全く別の問題。 過去を謝罪するべきという人は何のために謝罪するのか。ここがポイント。 謝罪はタイムマシンじゃない。やったことは消えない。 謝罪することによって過去の過ち(を認めるとして)を帳消しにできるとでもいうのか、そんなことはありえない。 それ以後の人間はだれも、どんな行動によっても歴史を変えることはできないし、歴史を打ち消すことはできない。歴史はそれ以後どんな行動があっても残り続ける。戦争責任だけではない個人的にもそう、言ってしまったことを取り消すことができるのは本人だけで、しかもそれでもなかったことにはできない。違った意味を付け加えるだけなのはみんな知ってる。 わたしだって、先祖になり替われるなら明治時代に青山の土地(当時は竹やぶ)を1000坪程買っておきたかったもんだ。あのときは買い逃しました、ごめんなさい、といってもだれもくれないよね。 では次世代にあたるわれわれにできることはなにか 過去に学びわれわれに与えられた時間においてより良い選択をすること、可能なのはこれだけ。 この選択のなかに歴史認識の相違が現れる。戦争責任があるかどうか、これはこのポイントの問題でそれは謝罪とは異次元にある。今の行動の選択は過去の歴史に対する認識が大きく左右する。「わるかった、もうしません」か「失敗した、こんどはもっとうまくやろう」とでるか。 戦争責任と題して謝罪のあり無しを討議する設定に異議を申し立てないと冷静な認識判断はできないでしょ。 だから反論のつもりで「原子爆弾の投下に対してアメリカは謝罪するのか」という話も出てくる 謝罪してもらっても困る、死んだ人は帰ってこない。現代アメリカ政府が責任をもって言えることは「もうしません」だけ。 歴史の認識と現在の謝罪を峻別しないと「ごめんなさい、こんどはもっと正しくつかうね」という回答が出てくる可能性がある。それでも謝ってもらったから許す? 書いていてクドくてわれながらイヤになった。 サンデルさんも挑発に乗りやすいマジメな学生をもてあそんではいけません。 10分に一度ぐらい「これはデベートだ」「謝罪とはどういう意味としてつかってる?」と繰り返してやってくれ。 個々の学生はバカじゃないけど教師の挑発にはなれてないのよ・・・ 小さい頃からおなじみのニュースキャスターで、のちの衆議院議員 いまはゴミのように扱われている社会党だけど田さんの頃は人気があった でもわたしとしては良識派の代表だと思っていたおじさまというよりこの人は報道人 第一回南極越冬隊、あのおんぼろ宗谷にのって西堀隊長以下タロジロもいっしょに じつはオスの三毛猫タケシもいっしょにでかけていったあの越冬隊を送って行った、第一次のたった一人の随行記者だったことはあまり知られていない 共同通信の記者だったため代表一名に、越冬はしなかったが宗谷が氷に閉じ込められオビ号に助けてもらった時、世界に「氷海脱出」を打電した人 初めての南極報道でまいにち「氷山にのるペンギン」やオーロラの写真が新聞に載るたび 父や母が見せてくれたのをかすかに覚えている。私は4歳だったはず 宗谷が氷に閉じ込められて前へも後ろへも行けなくなった2週間 西堀越冬隊は昭和基地に孤立していたし、宗谷は南極海に閉じ込められた 日本中がかたずをのんで見守る中、ソ連の砕氷船オビ号が救援に向かってくれたこと 「宗谷からオビ号の船影が見えます」という記事に日本中が喜んだこと みんな田さんの記事だった 「南極新聞」上中下に分かれた文庫本がある(旺文社文庫) 昭和31年11月8日から翌4月24日まで第二次の宗谷の船中で出された日刊紙の縮尺版 主筆は田さんではなくて隊員の一人。 みんな若くそしてやる気があったのがわかる この人たちは戦争を経験した人たちで、田さんですらいわゆる「特攻がえり」、戦争が終わって研究できる嬉しさがキラキラしている 古い本を開きながらご冥福を祈っています 2009年 2月6日 都内某所にて ささやかに新年会
ほろ酔い半歌仙が巻き上がりました 半歌仙「海の声」 連衆 こだま 暁兵 晶 ゆ プリズン 発句 海の声聞こえてきたり牡蠣の鍋 こだま 脇 できごころとふ波のいい訳 暁兵 第三 坂道に雛の荷物を持ちかえて 晶 四 道で出会った女の横眼 ゆ 五 誰かしら振り返っても月朧 プリズン 六 煎り豆屋から豆を煎る音 晶 裏初 追い払ふ過去も未来もワンセグに こだま 二 貴方にあげるわたくしの鍵 暁 三 音もなく雪の降り積むショーシャンク 暁 四 缶を開ければメキシコの空 ゆ 五 あのころはパイナップルに穴があり 晶 六 そこのけそこのけラクダが通る 暁 七 水の星陰るあたりに望の月 晶 八 割れた茶碗に小菊を活けて 暁 九 むざんやな芭蕉の嘆くきりぎりす 晶+暁 十 派遣村から流れる歌声 こだま+他 十一 時止まる大川の土手花万朶 こだま+暁 挙句 恋のひとつも江戸の春かな ゆ
里山の静かな木陰に木漏れ日を浴びてひっそりと咲いている
物思う風情の薄むらさきは万葉の詩人の心にも話しかけた な~~んぞとロマンチックな花なんでありますが 武蔵野の片隅で見たとか、見ないとかさんざん俳句仲間で話した後 純粋街中住人が発見したのはなんと東京下町八百屋の店先でありましたとさ 夕方、いつもの八百屋さんの店先で「おしたし、てんぷら」と札とつけられて1パック軽く一握りほどが130円、福島県産だそうであります くっちまうのかよ・・・当然購入、2パック 一つはてんぷらでおいしくいただきました、ころもの間から薄むらさきが透けて見えるなかなかオツなものです で、残りの一パック、コップに挿しておいたら次々開いて もののふの 八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 家持 家持も食っちまったにちがいないよな ちょっと脱力 かたくりや蛙は嫁に来いと言ふ 晶 ![]() ![]() ヨーロッパ発祥のこのオリンピックというもの
日本人も結構好きです。 ヨーロッパにおけるFreeTibetのアピールもイマイチこの国には響かない 日本人はオリンピックに妄想を抱いている「平和の祭典」なんて騒ぐのは日本ぐらいではという話を聞いて、そりゃそうだろうと納得するものがありました。 まず日本における「自由」ってのもわりに定義がいいかげん freedomもlibertyもおんなじ「自由」だし ヨーロッパの価値観を日本の価値観に強引に翻訳したときに、微妙にというかかなり大胆に内容が変わったように思います 、この国における自由とはアクションを伴わない、存在としての自由を意味します、のんびりと床屋談義ができることを言論の自由というようなもの、治安維持法のあった時期をのぞいて、庶民はそれでやってきたのです 平和と平穏のあいまいさもおなじ、 日本における平和とは去年と同じ今年がやってくることを言います。「平和」は平穏とイコールで、「安心が空気のように意識されない状態」なのです 日本人には「緊張感のある平和」言い換えればルール、契約、の維持による平和が感覚として理解しにくいのではないでしょうか、近代オリンピックは本来、緊張感のある平和のなかで契約の確認の役割をもつことを目標としてるのでしょうが、そんなものは最初からこの国にはありません。 ここに、オリンピックが「ええじゃないかおどり」に翻訳される大きな理由があります。 日本人はオリンピックに妄想を抱いているのではなくて、オリンピックの定義が違うというかズレてるのです。 「世界の人があつまってとりあえずけんかもせずに力自慢であそぶお祭り」これすなわち、「平和の祭典」であります。 奉納相撲とか村の力自慢大会、あるいは日本発祥のイベント「運動会」の国際版。国際緊張の弛緩ではなくて、日常の労働の息抜き。平穏の確認です。 だからこそ、このFreeTibetの流れの中で総本山善光寺がトーチの出発点にもなろうということになります。 こういう日本人を私は好きなんだけど、ただ善光寺さんはやめたほうがいいとおもうよ、あれはひどい。 たぶんチベットの人たちも日本人と同じように平穏を愛する仏教徒なんだから。せめてお寺は心を寄せてあげようよ。 山は暮れ野は黄昏の薄かな 蕪村
某掲示板で国木田独歩の「武蔵野」について書いていた人がいた 武蔵野の終わりの一節に上の句が引用されている そういえばそんなのあったなぁ・・・と武蔵野なんてン十年まえの中学時代に読んだきり、そのときは気候温暖水利抜群人口緻密地域の住人でまず、雑木林ってのがわからなかった。 わが故郷は平地に林なんて神社の杜があるぐらい、山に木はあるがあれは林とはいわんだろう。無理にあるけばハイキングという。 そこでは独歩の言うように「道に迷うことをおそれてはいけない」なんてことは無い。おおいに恐れるべき。 飛騨山脈で遭難すると人に迷惑はかけるが不運だったと人は言ってくれる(かもしれない)だが関西周辺の六甲山、生駒山あるいは京都の東山西山で遭難したら、生きて帰ってもニュースになる。まず行き倒れとの区別が難しい。 ところがごくたまに六甲山で遭難する人がいて、昨年は「勝手に帰ってくるだろう」と同行者にも見捨てられ、山中10日焼肉のたれをなめて帰還した市役所職員がいた。びっくりした。 閑話休題 この最初にあげた句、なにか引っかかるものがあった それで思い出したのがこの句 遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子 別に虚子さまが盗作をされたというわけではない また先日書いていた「踏む」というのともちがう これはにているがまったく逆の光景を詠んでいる 遠山に日の当りたる枯野かな 虚子 山は暮れ野は黄昏の薄かな 蕪村 虚子の句は低い冬の日が山頂だけに当たっている光景。 周囲は薄暗いのに遠くの山の峰だけは陽がさしている。 これは大団地の我が家周辺でもあることで、20階以上の部屋はまだ陽が入っているのに二階の我が家は真っ暗というやつ。 では蕪村の句はどうだろう この場合山はもう真っ暗、平地にはまだ残照がある これが起きるのは、山の側、山の向こうに日が沈むとき 山のこちら側は陰になり山を越えた陽が平地を照らす。 虚子も蕪村も山すその平地に立っているわけだが虚子の日は野の側に低くあり蕪村の日は山の側に沈んだということになる 虚子はこの句を道後の温泉山だと自解してるそうだが、虚子の住んだ御宝町から温泉山は東になる。虚子の背後にあったのは西の豊後水道に沈む夕日だったかもしれない。 蕪村は京都の人である、西山の山すそあたりの薄野、まずは嵯峨野の夕暮れを思い出す。 うつりゆく影と光線のほんのひと時をつかまえてどちらの句も作者の代表句のひとつになっている。 ![]() 新年あけましておめでとうございます
年に一度、主婦の能力の限界に挑戦する年越しであります ことしは、塗りの重箱を出してきて、全五段 塗りは冷蔵庫に入れられないので、冷蔵庫はストック、重箱には一日分をつめる方式 では 一段目 かまぼこ、二色卵 ほか ![]() 二段目 酢の物 酢だこ 小鯛笹漬け 紅白膾 たたきごぼう ![]() 三段目 焼き物 ぶり塩焼き うなぎ昆布巻き きんぴらごぼう ![]() 四段目 ローストビーフ 鴨照り焼き 若鶏炒めに 田舎風パテ ![]() 五段目 煮しめ ![]() もう二度と出来ないかもしれないと毎年思っているのにまたやってしまう 食い意地は生存本能の第一ではあります ふ~~~ 新年の感想はまた書きます。今日はもうダウン では、みんなにいい年になりますように みんな元気になぁ~~れ
6月15日この日付にもうだれも興味を示さない
昨日の朝、新聞を見ながらああ6月15日だなぁと思っていたのに、仕事から帰るとすっかり忘れていた私もそのうちの一人である。 今朝、新聞にNHKの山根基世さんのインタビューが出ていた、定年だとか。その中に「台所に転がっているような民主主義」という言葉があった。 民主主義という言葉が輝きを失って久しい。 この言葉にワクワクし、背筋を伸ばして判断基準にしていた我々世代は、現代の若者から見れば、日教組の偏向教育の悪しき作品と評価は定まってしまっているようにも見える。 たしかに、のうのうと体制の中で碌を食み、バブル時代を支え、最後に年金の食い逃げをする世代が「民主主義」といっても、伝わるものはないのかもしれない。 不器用な世代ではあった。私自身を考えてもそう。 戦争は知らない、そういいきった歌がはやった。一つ上の60年世代以上が持つ実感としての戦争とはかけ離れた理論と想念が頭の中で消化しきれない言葉としてあった。 しかし食べる苦労、働く苦労から遊離した学生の浮き上がった理想はなまじ現実から遊離していればこそ、逃げ場がなくエンドレスに追求されていたように思う。 特に過激でもなかった一般学生、まして70年当時の街中高校生はおにいさんやおねえさん大学生の「知性の反乱」を呆然として、まぶしく見つめながら、目の前にある複素数の計算問題と彼らの言う「科学」との相関を必死で手探りしていた どうしても、「棚に上げて」とりあえずしのぐということができなかった。政治形態としての民主主義、選択された行動形態としての反体制、存在としての個人、みんな科学としてつながるはず、そんな香りだけはした。 その香りを求めて、行動を総括し自己批判を繰り返し、連帯を求め、孤立を恐れない。考えてみればこんな流行語とも言うべき言葉がそれからの30年以上私のどこかで生きていたように思う。 働き、子供を育て、家庭に生きる中で、無数の小さな判断をしていた、まともに宿題さえしない子供を叱るとき、ふと戸惑う。「この子にとって勉強とは何か」なぞ、どうでもいいことが頭をよぎる。飲んだくれた夫に文句を言いながら私は何を基盤にしてこの人に要求できるのかとふと考える。 「子供を叱れない世代」だといわれてきた、信念と言うものがないのだろう。 しかし、この信念というものを持たないこと、戸惑うこと、ゆらぐこと、これがわたしの無意識に持った信念だったかもしれない。 我が家の台所に転がっている民主主義のかたちであたっともいえる。 最初に戻る、6月15日は60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんの命日。 高校三年生の初夏、進学を前に「科学は信じてよいのですか」と相談したのはこの人の写真だったように思う。 もう30年以上も前のことになる。 連休に出かけるには年齢制限がある
制限を越えると掃除と昼寝と読書 さらに夏物衣類の整理 たまには晩酌 オワリ 我が家は黄金週間の間に二回家族の誕生日がある どちらも大人なのでケーキもなく 今年は誕生日サザエと安いワイン 好物なのだけどおかずにならず、値が張るというわけで 普段はあまりお目にかかれない、ゆえに誕生日サザエということになる。 私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ コクトー 上田敏訳だろうか おしょうゆと磯の香りの汁を最後まですすって こんなことをつぶやいたら、大昔の記憶が甦った これは蒲原有明 牡蠣の殻なる牡蠣の身の、 ・ かくも涯なき海にして、 生のいのちの味気なき そのおもひこそ悲しけれ。 季節といえばちょっと遅いけど 「勧酒」井伏鱒二の名訳である コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ 時は春、 日は朝、 朝は七時、 片岡に露みちて、 揚雲雀なのりいで、 蝸牛枝に這ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。 こちらはブラウニング 上田敏訳 便利な世の中である これらの詩はじつは最初の数行しか覚えていなかった でね、それだけで検索するとちゃんと出てくるわけ 薄ら酔いで七五調の詩をぶつぶつつぶやいていると 長生きはするもんだとつくづくおもう 年取ってあたしがバカになった分だけ機械はカシコクなってくれた。それでいいじゃないの、昔は良かったかどうか知らないけど、もういちど20歳からやりなおすかと聞かれたら、それはゴメンこうむりたい 歴史を変換した一瞬というのがあるというのは、私の世代の歴史観ではウソ。天下分け目の「そのとき」があるように見えても、ずっと後になればそれは小さな選択に過ぎなかったとわかる。結局歴史のデキゴトはその前の長い歴史に押し出されたものだということがわかる 人だって一緒、人生に分かれ道は多いようでも実はそのとき反対の選択はありえなかった。 そのとき、あたしはこちらの方を選ぶ程度にバカだったというだけ。 それが良かったのかどうかは誰にもわからない 人生を二回やった人はいない ただ、大昔から選ばれなかった無数の人の無数の選択が たぶん、こんな詩になって、おばか人間を時にはいい気持ちにさせてくれている。 現実というものになれなかった無数の選択肢が作る世界は 重なり合って、うちの本棚にも積み上がっていると思えば なんだか、いとおしい。 ![]() 東京北区 王子から駒込へ 桜には少し早かったけど散歩に出かけました。
王子稲荷から名主の滝 飛鳥山公園から古川庭園 六義園まで そのまま、ぶらぶらと本郷三丁目まで歩いて帰宅 ちょうど本郷台地の背骨を本郷通りに沿って南下した形です 江戸時代は避暑地だったそうで、東京にもこれだけの丘陵がある。飛鳥山からはるか隅田川の氾濫原に広がる町並みを眺めて東京も一皮向けば、丘陵が海に流れこむ美しい自然地形を持っていることを確認。 江戸の庭、大正の名建築、昭和の香りの濃い町並みをめぐりながら、少し早いもうすぐの桜にあちこちで会いました。 ヒミツの桜を見つけました 有名な桜の名所のすぐそばの住宅地 昭和の長屋にコの字に囲まれて少し広い公園があります 公園といっても児童公園のようなもの そのまんなかにおおきなおおきな2本の桜 そこに住む人だけの「うちのさくら」なのでしょう とりまく小さな家家はみんな公園に向かって玄関があります ![]() ちいさなコミュニティの中心に空を覆いつくすような桜が もう今にも開きそうに枝を広げていました 場所は秘密です、ヒミツ。 道に迷って行き止まりにぶつかった公園でした。 ほんとにあるのだろうか、こんどいったら消えているんじゃないかと心配になるような、涙の出そうな桜でした というところへ出陣(年休消化!)
80過ぎた母が「出来たって言うやないの、いきたいわ」 とおっしゃるので、冥土の土産に同行。 ウチの母は冥土の土産をここ10年以上集めており、土産が重すぎて出発は当分延期になっている、げんき。 現在、企画展はいくつかやっているがお目当ては 「異邦人(エトランジェ)たちのパリ 1900 - 2005 ポンピドー・センター所蔵作品展」 簡単に感想を述べると展示の内容はショボイ。 ここはThe national art centerというとおり美術館自身の所蔵品はない、あるのは企画展用のハコだけ。 したがって企画がイノチなわけだがオープニング企画にしては貧弱だった。 ポンピドーセンターは以前、木場の現代美術館に大量に来たことがあり そのときの展示が質量ともにものすごかったのでちょっと期待していた。そのときは美術の教科書に出ている印象派以降の作品ほとんどすべてを見せていただいたような気がする展示だったから。 で、今回。オープニングとしてはと前置きして まず、作品の点数が少ない、写真が多いせいもあってボリューム不足。 好みもあるだろうけど、なにしろ作家の代表作が来ていない ポンピドーセンターにはもっとちゃんとしたのがあるでしょうに。 モディリアーニが数点、ピカソが数点 どちらも代表作とはいいにくい。ピカソの20代(キュビズムの前)の女性像はすてきだったけど、泣く女はあそこにあるはずだよねぇ。日本人ピカソ大好きなんだからそれぐらい貸せよな。オープニングなんだぞ。 パスキンはすてきなのがあたったよ、二点 カンディンスキーは一点、もう少し派手なのが見たかった レオナルドフジタは例のカフェの女と自画像、あとアトリエものが二点、これはいいのかもしれない、個人的にはあんまり好きじゃないけど。 あと、現代美術館のものがおおくて実際には看板にいつわりあり、ポンピドーセンターのは全体の二分の一ぐらいじゃないんだろうか。 写真はすてきだった。マンレイはなめるように見てしまった 企画展は作品のネームバリューより、企画の主張と目新しさだとは思うけど「エトランジェたちのパリ」なんて目新しさもない。そう括るなら、もう少し年代で並べるだけではなくて、相互の影響にまで目配りがあったら面白かったと思う マンレイの例の背中をバイオリンにした写真のモデルはキキって人で、同じモデルをいろんな人が描いているはず。 そんなのが並んだら面白かっただろうに。 この企画展を見た範囲では、なぜパリにこんなにエトランジェが集まったのか、かれらがそれぞれの母国から何を持ち出したのか、彼らが集まることによって何を生み出したのか、そんな視点が見えない。 素人が考えても、ロシアから北欧から、東欧から、アジアから それぞれ、祖国の文化をもってやってきた才能が 相互に影響を与えなかったはずはない。 かれらが学んだのはパリの文化であると同時に仲間が持ち寄った文化だったはずだとおもう。 シャガールとスーチィンをならべてパリが彼らに何をしたか見せてくれたらうれしかったかもしれない。 建物は黒田紀章。青山墓地のとなりに緊急着陸した四月の綿雲がややヘタレた雰囲気である。 「なんで安藤さんとちがうの?」母は不満そう 「雨漏りの丹下、壁落ちの黒川」なんていうマニアックな言葉をご存知で、「あのガラス大丈夫かいなぁ」などとコメント。 彼女はフジタの目覚まし時計のあるアトリエがお気に召したそうです ![]()
ウチのネコは二代目、五歳になる
先代は2年足らずでお亡くなりなったが、2年目でも2kgしかないちびネコだった。黒っぽいトラネコで名前はじゅん。6月生まれだから。 こいつは小さくてひ弱だったけど、動きはものすごく敏捷だった。 いまのネコ(4.5kgある)よりカシコかったように思う。 こいつは電話をかけることを覚えていた。 ウチの電話にはテブラ機能があって、それを押すと受話器をはずさなくても通話できる。 番号をプッシュしないで通話ボタンを押すと自動的に登録してある電話帳につながる 結果、テブラボタン→通話ボタン これでアイウエオ順に登録されている電話帳の一番につながるわけである。 最初は真夜中だった。 突然リビングで、人の声が響いた。 「本校の業務は終了しました、御用の方は明朝8時以降におねがいいたします。御連絡の必要な方はピーという電子音の後に・・・・」 当時3号の通学していた中学の名前は「あ」から始まる。 電子音の後には 「わぁ~なになに・・どうしたのよ」「ドシン」 「にゃぁ~~~」「きゃぁ あんたなの」 などという声が録音されていたはず。 電話がつながっていることに気がついて、あわてて切ったのは数分あと。名乗ったわけではないけど、翌朝の事務室は???ってことに。 偶然、電話の上を歩いてしまったのだろうと思ったのだが甘かった。 ネコはとにかく「変わったこと」がすき。ちょっといつもと違うことをしてると、いつのまにか寄ってきて不思議そうに眺めている。 押せばランプが付いてしゃべりだすおもちゃに気がつけばもちろん夢中になる。 数日後、電話の上にペタンとすわり、テブラボタンをあきらかに狙って前足でプッシュしている現場を押さえた。 「事務室にいたずら電話が多い」というウワサはないか それとなく聞いてくるように3号にいったけど、 「とくになにもいってなかったよ」 もっとも、いくら説明しても信じてもらえたとは思えないけど。 すぐに、電話帳をすべて消去してどっかにつながるのだけは阻止。 しかられて電話で遊ぶのはやめたみいだけど、昼は留守番ネコだったからホントのところはわからない。 ![]() いま関川夏央の「砂のように眠る」という本を読み終わった
「むかし戦後という時代があった」という副題を持つこの本は昭和24年から47年までに発行された十数冊の本の評論と6つの短編小説から成る。 ある時代を一番よく代表すると思われる本 その時代の「わたし」のデキゴト。 交互に並べられた文章を読みながら、行間に立ち込める関川の「あんたはなにをしてたんだい、あのころ」という問い掛けにどっぶりとはまっている。 最初の短編(雪国の小学生が主人公)のあとに出てくる一冊めの本は「山びこ学校」無着成恭さんのあの本である。 私の小学校の教室には学級文庫というものがあった。 図書室とは別に、各教室に上下二段ガラス戸つきの90センチ幅の本箱が一つ。 おそらくは、図書室で廃棄本になるような古い本や各家庭から持ち寄った雑多な本が学年や内容ににお構いなしに詰め込まれていた。 読むことは好きだったが、本など月に1冊ぐらいしか買ってもらえなかったし母のチェックがはいった。 図書室はいつもは行かない廊下にあったし、いつも薄暗く、たまに人がいると上級生。それに比べると掃除道具入れの隣の本箱は親しみがある。 最初は面白そうな本を選んでいたのだろうけど、もともと子供向きの新しい本はなかった。「なんでもいいや」と上段の右の端から全部読むことにした。四年生だった。 実はこのとき読んだ本で印象に残っているものはとても多い。 古い小学校で都心にありながら幸い戦災をのがれていた。 戦後教育のなかで図書室にはとても置けない戦前の本、PTAが集めたらしい大人の本、それらをわかってもわからなくてもむさぼるように読んだ。 「南総里見八犬伝」「椿説張弓月」「梅枝先生行状記」これらは総ルビの活字でわら半紙のような紙質、立川文庫だったかもしれない。 波多野勤子の「少年期」、ほかに「本を読むしんちゃん」、「文化住宅設計集」南方熊楠の「十二支考」のなん冊か。 信じられないけど伏字だらけの「アラビアンナイト」 伏字なんてもう誰も知らないだろう、文庫本なのに文章の途中でとつぜん活字がとぶ「○○○は○○を」なんて続くのである。 いかに誰もこの本棚を見ていなかったがわかる。小学生が読んでもわかるはずもなく、あとでああこの本だったのかと思い当たった本が多い。 しかし、読んでみるものである。 あたしはこのとき「たけくらべ」と出会い、解らないままに「まわればおおもんみかえりやなぎいとながけれどあけくれなしのくるまのゆききにはかりしれぬぜんせいをうらないてだいおんじまえとはなはほとけくさかれどさりとはようきなまちよとすむひとのもうしき」と暗誦してしまった。 子供の能力は無限である。 なんでも覚えるそして勝手に考える 「山びこ学校」ではそれは教育の可能性の賛歌となっている。 しかし、一方で気をつけなければいけない場合もある。 このころあたしは「女衒」という漢字を読むことが出来、意味もだいたい解っていたけど、霊魂とベーコンの区別がつかず くじらの霊魂は赤いんだなぁと信じていた。 「赤く燃えるわれらのたましいを・・・」なんてフレーズにすごくなっとくしていたわけである。
男の子が三人もいれば今日あたりチョコレートは家に満ち溢れてなくてはいけないはず
んなわけなくて、そのことには触れない一日が今年もまた過ぎようとしている。 高校時代、クラスの女の子全員でクラスの男の子全員にチョコレートをあげたことがある クラスは43人うち女子は15人ぐらいしかいなかった 15人は結束が固く、クラス内では抜け駆けなんて考えようもない。幹事が28個(一つは担任の分)の小さなチョコを購入15人で頭割り。一人70円―80円ぐらいだったとおもう。 全員で手分けしてメッセージを書いた。 一応出席番号順に振り分けたから、もらう相手はわかっている 自分の名前は書かない・・という約束。 当日朝、職員室にチョコを持ってゆき、先生に頼んだ。 「ちょっと10分ぐらいでいいから男子だけ外にだしてもらえませんか」 先生理由を聞いて 「君ら チョコレート屋の作戦にのせられてるんやで」 「先生、そうやったら、チョコレート屋さんってなんていいこと考えてくれたんでしょうねぇ」 幹事に同行したクラス一の美人の発言に 先生ニヤリ。 「よっしゃ」 2時間目、担任の数学の授業の後、わけもなく 「ちょっと男子だけ朝礼台の前にきてくれ」 どやどやと彼らが出ていったあと、みんなで間違わないようにそれぞれの机にチョコを隠した 思いがけない反応があったのはそのあと。 全員もらっているはずなのに、誰も何も話さない 全員同じチョコだというのがばれないのである。 男の子の真剣さにさすがの女子がびびった。 「悪いことしたねぇ」「どうしょう」 終礼のとき担任がニヤニヤとやってきて、 「君らいいモンもらったやろ」としゃべりだすまで 気まずい時間が続いた。 女の子はみんな下向いてた。ゴメン。。。 幹事は女子仲間に総攻撃を受け、代表であやまりにいけといわれたけど、どこにいっていいのかわからない。 そのあとも仲のいいクラスだったから、まぁよし。 幹事は全責任を負い その結果あたしはいまでも、同窓会に行くと 「ハイ、なんでも手伝うよ・・」ということになる。
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