ヨーロッパ発祥のこのオリンピックというもの
日本人も結構好きです。 ヨーロッパにおけるFreeTibetのアピールもイマイチこの国には響かない 日本人はオリンピックに妄想を抱いている「平和の祭典」なんて騒ぐのは日本ぐらいではという話を聞いて、そりゃそうだろうと納得するものがありました。 まず日本における「自由」ってのもわりに定義がいいかげん freedomもlibertyもおんなじ「自由」だし ヨーロッパの価値観を日本の価値観に強引に翻訳したときに、微妙にというかかなり大胆に内容が変わったように思います 、この国における自由とはアクションを伴わない、存在としての自由を意味します、のんびりと床屋談義ができることを言論の自由というようなもの、治安維持法のあった時期をのぞいて、庶民はそれでやってきたのです 平和と平穏のあいまいさもおなじ、 日本における平和とは去年と同じ今年がやってくることを言います。「平和」は平穏とイコールで、「安心が空気のように意識されない状態」なのです 日本人には「緊張感のある平和」言い換えればルール、契約、の維持による平和が感覚として理解しにくいのではないでしょうか、近代オリンピックは本来、緊張感のある平和のなかで契約の確認の役割をもつことを目標としてるのでしょうが、そんなものは最初からこの国にはありません。 ここに、オリンピックが「ええじゃないかおどり」に翻訳される大きな理由があります。 日本人はオリンピックに妄想を抱いているのではなくて、オリンピックの定義が違うというかズレてるのです。 「世界の人があつまってとりあえずけんかもせずに力自慢であそぶお祭り」これすなわち、「平和の祭典」であります。 奉納相撲とか村の力自慢大会、あるいは日本発祥のイベント「運動会」の国際版。国際緊張の弛緩ではなくて、日常の労働の息抜き。平穏の確認です。 だからこそ、このFreeTibetの流れの中で総本山善光寺がトーチの出発点にもなろうということになります。 こういう日本人を私は好きなんだけど、ただ善光寺さんはやめたほうがいいとおもうよ、あれはひどい。 たぶんチベットの人たちも日本人と同じように平穏を愛する仏教徒なんだから。せめてお寺は心を寄せてあげようよ。
by kokichi50
| 2008-04-16 09:18
| 近隣のみなさま
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ちょっときいてよ
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